フランスにおける学校選択と学区制度

−学区制廃止は教育の社会的不平等の解消に貢献するか?−

 

 

 

 

0.導入

 フランスの中学校1)には大きな学校間格差が存在する。すなわち、一部の学校に教育的・社会経済的ハンディキャップを負った生徒が集中し、さらに、そうした生徒はしばしば移民家庭出身者であることから、学校間格差は、特定の学校に特定人種の生徒が集中する「人種隔離」の様相を呈することにもなる(Felouzis et al. 2005)。学校間格差は、教育の平等と機会均等の原則に反し、また、公空間における人種・社会階層の混合という「共和国的理想」とも衝突する。すなわち、学校間格差は特定社会階層(人種)の隔離状況を作り出し、それがフランス社会の結束性を脅かしているのである。特定カテゴリーの生徒の集中という学校の「ゲットー化」は、大都市圏における居住地の階層的・人種的分割という社会状況の反映だが、そればかりでなく、学区の公立中学校を回避して他の公立校または学区の制約を受けない私立校に子どもを通わせる学校選択行動が、学校間格差をさらに拡大させた原因として指摘されている(Broccolichi 1998, François 2002, Barthon et Monfroy 2005, Felouzis et al. 2005, 荒井 2009b)

 こうした事態を受けて、学区制廃止を公約したサルコジ大統領と現政府は、学区制を2010年以後廃止し、学校移動を自由化することによって学校における階層混合を実現するという政策を取り、経過措置として2007年から学区制を緩和し、施設に余裕がある限り学区外の学校への登録を認める方針を打ち出した。本稿は、学区制の廃止とそれに向けた学区制緩和措置が、社会階層の混合を実現し、教育の社会的格差是正に貢献するか検討することを目的とする。まず第1節では、学校移動の実態を統計的に跡づけ、中間階層や特に庶民階層の学校選択行動の特徴を浮き彫りにする。すなわち、学校選択とは、一般により評価の高い学校に移動する「上方移動」を前提とするが、中間階層の一部や庶民階層にあっては、必ずしも上方移動がみられるとは限らないという事実をみる。ついで、2節では、「選ばない階層」とみなされてきた庶民階層と学校との関係を、学校選択をも含めた視点で再検討する。こうした考察をふまえて、最後に第3節で、学区制の廃止・緩和と、学校における階層混合および教育の社会的格差解消との関係を、批判的に検討する。

 

1.競争圏における学校選択行動の実態

 周知のように、学校選択行動は、上層・中間階層から庶民階層まで一定の広がりを見せている(荒井 2009b)。しかし、学校選択を支える動機や具体的行動は、社会階層ごとに大きく異る。私企業高級管理職を中心とする上層階層の功利主義的教育投資行動は、エリート的学歴を追求すると同時に、学校や居住空間における排他的な「仲間うち(entre-soi)」環境を志向する。中間階層や上級知識職など上層階層の一部では、子どもの「生活重視」という方針や階層・人種混合という「原則」と、学校選択との間にしばしば葛藤が観察される。そこでは学校選択が、子どもの「安全のためのやむを得ない選択」という消極的な形態をとることもある(Oberti 2007, van Zanten 2009)2)また、学校選択には、学区とその周辺における教育供給状況が大きく影響する。各家庭は自分に許された可能性の範囲で学校選択を考えるのであり、周辺状況が選択傾向を活性化したり鎮静化したりする(Broccolichi et van Zanten 1997)

 学校選択は、従来、家庭の主体的な選択という側面が強調され、様々な「戦略」ばかりがマスコミを通してセンセーショナルに取り上げられるきらいがあった。しかし、実際には、家庭の動向は社会階層に対応する経済・文化資本の量や、通学可能範囲にどのような選択肢があるかという環境要因に大きく左右される。François et Poupeau (2008)は、この環境要因を統計的に処理し、学区および学区周辺の学校が作り出す「競争圏」における教育供給が、家庭の選択に課す制約を分析に取り入れた。その結果、学校選択と社会階層との関係に関して、これまで明示されることのなかった興味深い事実が明らかになった。

 従来の研究で、学校選択の階層性はすでに明らかにされていた。すなわち、学校選択は、一般に社会階層が上ればそれだけ増加する(François 2002, Barthon et Monfroy 2005, Oberti 2007, 荒井 2009a)。しかし、François et Poupeau (2008: 110)によれば、学区の学校を回避する傾向は、社会階層によってのみ決定されるわけではない。環境要因がそれぞれの社会階層に対して異なった作用をするため、社会階層の上昇と学校回避率の上昇が、すべての環境において対応するわけではないのである。こうした学校選択の詳細を、パリ市を例としてみてみよう。

 François et Poupeau (2008)は、パリ市内の中学校と、その中学校の学区に隣接する学区群周辺圏の性格を、生徒の特徴から「非常に恵まれた・恵まれた・やや恵まれない・恵まれない」という4つにカテゴリーに分類する。中学校については、その学校に通う生徒の特徴(社会階層・年齢・国籍)から分類し、周辺圏については、そこに含まれるすべての学校に通う生徒の特徴から分類したものである。さて、一般に、学区の学校の評価が低いとき、その学校に対する回避行動の頻度は高まる。学区の学校に対する否定的評価が学校選択を動機づけるのは当然だが、これにはもちろん周辺圏の状況も関与する。すなわち、評価の低い学校周辺により良い学校が存在することが必要である。こうした条件がそろったときには、学校回避の階層性が典型的に現れ、恵まれた階層ほど学区の学校を回避する。これに対して、学区の学校の状況と周辺圏の状況がより複雑な関係をみせるとき、各家庭の学校選択は社会階層によってかなりの変異を見せる。いくつかの事例をみてみよう。

 学区の学校が「恵まれた」ものであり、周辺圏が「非常に恵まれた」ものであるとき、周辺により良い学校があるにもかかわらず、学区の学校にとどまる比率は高まる。周辺のエリート校の教育レベルに子どもがついていけなくなるリスクや、学区学校を回避するための負担を負うより、学区の「恵まれた」学校で満足するほうが得策だとする保守的傾向が、中間階層以下の階層を中心に、一部の上層階層をも取り込みつつ、生じるからである。このように、学区の学校が否定的評価を受けない状況では、必ずしも上方移動が起こるわけではないという事実は注目に値する。このことは次の事実とも関連する。すなわち、「恵まれた」学校の学区のほうが、「非常に恵まれた」学校の学区よりも、生徒が学区にとどまる比率が高い。「非常に恵まれた」学区では、以下にみる庶民階層の下方移動がより頻繁に起こるからだ。

 庶民階層は居住地の条件からして、「恵まれない」学区にいることが多く、かつ周辺状況も「恵まれない」ことが多い。学区の学校が「恵まれない」もので、周辺状況が「恵まれない」ないし「やや恵まれない」ものであるとき、彼らは80-90%もとの「恵まれない」学校にとどまる。「やや恵まれない」学校に移動することに、負担に見合った意味を認めないからである。これに反して、あまり起こることではないが、庶民階層が「非常に恵まれた」あるいは「恵まれた」の学校の学区にいるき、学区の良い学校にあえて行かず、周辺のあまり恵まれない学校のほうに下方移動するものが全体の半数に及ぶ。

 民間部門中間階層にも庶民階層と類似した傾向がみられる。自分の学区の学校が周辺圏の学校よりも評価が低いとき、上層階層の生徒はためらわずに学校移動をするが、民間部門中間階層の子どもの場合、周辺圏が「非常に恵まれた」ものであるとき、79%までが学区の学校にとどまる。一般に、この階層では、上方移動をするものは14%にすぎない。これに対して公共部門中間階層は、やや文化的な資源に恵まれているだけ、積極的に学校移動を実行し上方移動の割合も高い34%

 ここまでみてきたように、François et Poupeau (2008)は統計データに基づいて、学校移動が必ずしも上昇方向とは限らない、という重要な事実を示した。上で見たように、学区の学校の評価が低く、かつ周辺により良い学校が存在するときには、階層的に上位の者ほど学区学校を回避する。結果として、上層階層は、前段でみた自分の学区の「恵まれた」学校で満足するケース以外は、学区学校よりも良い学校を目指して上方に学校移動をする。これに対して、庶民階層そして中間階層は、必ずしも上方移動を志向しない。確かに彼らも自分の学区学校の評価が低く、周辺に手ごろなレベルの学校があるときは上方移動をするが、周辺圏のレベルが高すぎるときは、学区の学校にとどまる傾向がある。それどころか、とくに庶民階層の場合、学区の学校があまりにも条件がよすぎるときは、あえて下方に学校移動をすることさえある。庶民階層の下方移動と上層階層の上方移動は、言うまでもなく社会的な分離と学校間格差を強化する方向に働く。こうした点を考慮すると、学区制の廃止(緩和)を通して、学校移動の可能性を高めることは、学校における階層混合を推進するどころか、各学校の社会階層的特徴をいっそう際だたせ、学校間の差異を広げる方向に作用する、とFrançois et Poupeau (2008)は結論する。

 庶民(中間)階層の上方移動を抑制する要因として、教育関係者がこの階層の親に上方移動を差し控えさせるという現実がある。一般に、学校選択をする際には、子どもの成績が決定的な「資産」となる。私立の選抜はむろんのこと、学区外学校への入学を求める「特別許可」に際しても、子どもの成績が重要な意味を持つ3)。これを受けて、小学校の教員が、学区外の学校や特別許可に関する「秘密の情報」を成績のいい子の親にだけ漏らしたりすることがあるという(Broccolichi 1998: 46-47)。また、POPSCOL (2009)によれば、あまり評判のよくない中学校の学区内のある小学校の校長は、学区外の中学校に入学を希望する親たちに、学区外の「レベルの高い中学校」に子どもを入れることが必ずしも子どもためにならない、と説得しているという。小学校段階で、必ずしも楽々と学業をこなしたわけではない子どもにとって、そうした学校は、かえって困難を倍加する可能性があり、それよりも、むしろ、一般的な評判は悪くても、勉強が遅れぎみの生徒の面倒をよくみる学校のほうを勧めるのである。こうした説得に応じて、意見を変える親は、相談を受けたケースのほぼ半数に及ぶという4

 こうした説得が功を奏し、中間階層そしてとりわけ庶民階層の生徒・親たちが学校の上方移動を断念するためには、背景となる二つの事実がある。まず、教育環境について、強引に上を目指す直線的な上昇志向を警戒する彼らの現実主義がある。こうした現実主義によって、たとえば、良い中学校に入学したことで、成績順位が極端に下降して子どもがやる気をなくすとか、また、良い中学校で大勢を占める中・上層階層の生徒たちの間で、子どもが孤立するという事態を避けることができる。もう一つの背景は、中学校の学校間格差が広がった結果、各中学校が、エリート的選抜にたえる受験教育や学習遅滞生徒の補助といったそれぞれの得意分野に「専門化」する傾向が出てきたことである(荒井 2009a:217-221)。調査対象になった小学校の校長が語るとおり、「良い中学校」では勉強が遅れがちな生徒が放置される傾向があるのに対して、「あまりレベルの高くない中学校」のほうは、そうした生徒に対する補助的ケアが充実している。無理に上を目指して落第などのリスクを負うより、手に入るものを着実につかみ取るという庶民階層の現実主義は、選択の余地のないものをあえて選択する「必然‐自発転換nécessité vertu」機制(Bourdieu 1980)に基づくと解釈できるが、それによって各中学校に、その「専門化」にふさわしい生徒がより集中し、学校間格差がいっそう固定されることになる。

 ここまで、庶民階層の学校移動の特徴をみてきたが、次節では、「選ばない階層」として学校選択研究の埒外に置かれてきた庶民階層と学校教育との不整合を考察し、この階層がしばしば背負うことになる教育の社会的不平等の起源にせまるとともに、それが彼らに特有な学校選択行動を引き起こしている事実を指摘する。

 

2.庶民階層と学校教育

 庶民階層が子どもの教育に無関心だという通念が、誤った偏見にすぎないことは、早くから指摘されてきた(Terrail 1984)。さらに、90年代を通して、この階層の家庭が、しだいに子どもたちに高学歴を求めるようになってきていることも、明らかにされている(Beaud et Pialoux 1999)。学校選択に関しても、学区の学校を回避する傾向が、上層・中間階層からしだいに庶民階層に広がりつつあることが観察され、それには私立校への移動も含まれる(荒井2009b)5)

 Thin (2009)も指摘するように、子どもの将来を左右する学校教育への配慮や希望など、すべての親に共通することでも、その現れ方は、社会階層ごとに異なってくる。学校選択をはじめとする教育投資行動に関しても、庶民階層は、教育(制度)に関する知識・ノウハウなどの情報や、自分たちの教育戦略を実行に移すための現実的手段に欠けることが多い。しかしそのことは、彼らが子どもの教育に対して、希望や要求を持っていないことを意味しない(Broccolichi 1998: 49)Cayouette (2009)も指摘するように、庶民階層を「選ばない階層」とみなす一般的傾向は、彼らを特異な階層として措定することでその「特殊性」を自然化し、結果として、彼らの社会的排除を側面から固定化する契機を生み出す6)。庶民階層もまた、競争的な教育環境に置かれ、学校選択をはじめとする教育投資行動と無縁ではいられない。彼らの学校教育に対する姿勢・行動を詳しく分析し、学校教育とのすれ違い・対立・委任・あきらめ等を正当にとらえることは、学校教育の社会的不平等の解消に向けた今後の対策を考える上でも不可欠である。

 庶民階層と学校教育との関係は、しばしばねじれたものになる。このことを念頭に置きつつ、学校教育と庶民階層の教育実践との関係を、Thin (2009)などを通してみてみよう。

 学校教育は、家庭の役割をたいへん重視するようになっている。宿題をみるなど、家庭における学習補助を、学校は当然のように求める。家庭は、学校と「共同して生徒を育てる」ことを要請され、それにこたえられない親たちは「ほったらかしの親」として生徒と同じように叱責される。

 庶民階層の家庭でも、他の階層と同様に、子どもの勉強をみるのはあたりまえになっている。統計調査(Gouyon 2004)によれば、一般に、小学生の子どもは月平均20時間弱の学習補助を両親から受ける。母親の役割がとくに大きいが、注目すべき点は、母親の学歴が低いほど、学習補助の時間は増えることである。これは、学習補助の効率の違いを反映していると考えられるが、階層と学歴との対応関係を考慮すると、庶民階層の家庭ほど、親は、子どもの学習補助に時間をかけていることになる。しかし、その一方、こうした家庭の母親は、しばしば小学校レベルでさえ、子どもの勉強をみるための知識が自分に欠けていると感じている。学歴が非常に低い層では、その比率は50%を超え、子どもが中学校にすすむと80%まで上昇する。

 学歴が低く、文化資本に欠ける親たちにとって、学校が当然のこととして要求する学習補助はまったく容易なことではないのである7)。能力の不足を自覚する親たちには自信がなく、間違ったことをさせてしまうという不安も生じる。それを補填するかのように、学習時間を必要以上に増やしたり、暗記などの機械的学習に力を入れる。しかし、こうしたことは、Kakpo (2009)も指摘するように、子どもの自立的思考能力を育てることにはつながらず、学校教育にとってかえって阻害要因となってしまうことさえある。学校は、学校的な学習体制に適応できる生徒を育て上げることを、家庭に求める。子どもの話し方を、学校教育で用いられる明示的な「ことば使い」に改めさせたり、日常の様々な場面を「学習」の機会とし、お出かけや遊びもそのために利用することのほうが、機械的学習よりも有益なのだが、こうした中・上層階層にとっては当然のことも、「学校的論理」に疎遠な庶民階層にとっては、自明のことではないのである。

 学校と庶民階層の家庭の間に行き違いがみられるのは、学習に関してばかりではない。行動規範や規律に関しても両者の論理は異なっており、しばしば互いに誤解を生むことになる。学校は、ことばによる権威を通して、子どもに自己規制を身につけさせるという手続きを尊重する。これに対して、庶民階層の家庭では、しつけは、禁止や罰を通した直接的な介入・行動制限という形を取る。これは、子どもが行動する場面に親がいることを前提にしており、学校教育的な観点からは不十分なものとなる。親がいないときでも、子どもは規範的に行動しなければならないからだ。しかし、こうした学校の要求は、庶民階層の親たちに困惑をもたらす。学校は、一方では子どもの規律ある行動を求めて、親にその責任を問うと同時に、親が子どもの行動を直接規制することを方法的に禁じるからだ。さらに、親の側からすれば、子どもに問題行動が観察されたとき、実際にそれを見ていた学校(教師)が、現場で直接介入せず、あとになって親に責任を求めてくるのは、きわめて不合理に感じられ、不満を生じさせることになる。

 学習や行動規範の習得に関して、学校と家庭との間にこうした齟齬が生まれるのは、庶民階層の親たちが学校的な文化資本を保持しておらず、それを子どもに「遺産相続」させることができないからだ。そして大変重要なことは、庶民階層の生活慣習と学校的要請とのこうしたギャップを、学校側が積極的に埋めようとはしていないという事実だ。この点で学校教育は、庶民階層に対してむしろ選抜的に機能する。学校という「サービス」を享受するには、家庭での準備というハードルが課され、それを通して選抜が行われているのである。言うまでもなく、もしある学校の教育レベルが高ければ、当然、それに適応するために家庭の負担も大きくなり、ときには、庶民階層の家庭には耐え難いものとなる。こうした家庭負担の「せり上げ」現象が、学校選択における庶民階層の下方移動を説明する一つの要因となる8)

 どうして学校は、庶民階層の家庭に対して、学校的な認知・言語・行動習慣への適応を準備してやることができないのだろうか。第一の理由は、学校教育が一般的な競争状況の中に置かれていることにある。競争状況では、各自が他人を追い越して上に行くことを求めるから、学校は生徒・家庭の「自助努力」を前提に、目標と課題を与え、それを達成した者を認証すればよく、目標についていけない「落ちこぼれ」が生じても、競争原理自己責任の当然の帰結とされ、非難をうけることはない。こうして、家庭への過度の「役割」と「責任」の付与が正当化されることになる。第二の理由は、教員の変化にある。かつては小学校を中心として、教員には庶民階層出身者が数多くいた。教員養成課程は、バカロレア以後3年であった。それが90年代の教員養成改革により、教員は、通算でバカロレア以後5年を要する教員養成機関IUFMの出身者となり、大幅に中間階層化した。かつての庶民階層出身の教員が、庶民階層の生徒に理解を示し、彼らを学校的な慣習・秩序に適応させようと努めたのとは対照的に、新しいタイプの教員は、庶民階層の現実にうとく、彼らのために特別な努力を払うという動機に欠ける9)

 庶民階層と学校教育の間には、一種の文化的断絶がある。彼らにとって、学校教育は、自分の世界とは異なった世界での試練の様相を呈し、当然リスクの多いものとなる。庶民階層と学校教育のこのような関係が、前節でみた庶民階層に特徴的な学校移動を動機づける。こうした事実をふまえて、次節では、学区制の廃止が、庶民階層が背負っている教育における不平等にどう作用するか、考察する。

 

3.学区制廃止(緩和)政策の論理と現実

 フランスの公立中学校の学区制度は現在大きな転機を迎えている。「社会的多様性と教育の機会均等とを促進する」(circulaire n° 2009-068 du 20-5-2009)とされる学区制緩和政策の結果、特別許可願の申請・承認件数が増加する一方、学校における社会的隔離状況もより深刻化したことが、政府機関の報告書でも確認されている10)。こうした状況を受けて、本節では、上の各節で検討した学校選択の現実をふまえつつ、学区制の廃止・緩和政策と、学校における階層混合および教育の社会的格差解消との関係を批判的に検討する。

 中学校の学区制は、学校回避によって、今回の緩和措置以前からすでに空洞化し、一部の公立校に、社会・経済的に恵まれず、学習の遅れをみせる生徒たちを集中させ、「ゲットー化」と呼ばれる深刻な学校間格差(荒井 2009a)を生じさせていた。1節で見たように、学校回避は基本的には階層的な現象である。すなわち、社会階層が上昇するほど学校回避の頻度が上る (荒井2009b)。この現実を受けて、一部の論者は学区制が社会的に恵まれない者を条件の悪い学校に閉じ込めることになると主張し、学区制の廃止が、恵まれない地区に住む庶民階層の生徒たちに、居住地の外にある良い学校に通って、社会的上昇を手に入れる機会を与えると論ずるが、こうした主張にはたして現実的な根拠があるだろうか。

 1節でみたように、学校選択は社会階層ごとに異なった現れ方をする。とくに庶民階層の場合、学校選択は、その可能性があるときでも必ずしも上方移動とはならず、場合によっては、より良い学校をかえって避ける下方移動さえ観察された。この点を考慮すると、学区制廃止によって、恵まれない地区の庶民階層の生徒が、上層階層地区の良い学校に移動するという一般的傾向が生ずるとは想定できない。

 学区制廃止が庶民階層の学校移動を促進する、という想定の根拠を疑わせる事実がもう一つある。François et Poupeau (2008: 106)によれば、小学校で飛び級をした成績優秀者では一般に学区の学校を回避をする比率が上がる。これは私立の選抜等を含めて、生徒の成績が学校選択のための大きな資産となることを考慮に入れれば、理解できる傾向である。しかし、この傾向には例外がある。すなわち、庶民階層の飛び級経験者は他の生徒よりかえって学区の学校にとどまるのである。この事実は、良い成績という好条件をもってしても超えがたい抑制要因が庶民階層の学校選択につきまとうことを示しているが、はたしてそれは学区制の拘束だけだろうか。むしろ、経済・文化資本の欠如や、それに由来する必然−自発転換の機制が、強引な上昇志向を阻むからではないだろうか。庶民階層を地元の恵まれない学校に「閉じ込めている」のは、学区制ではなくむしろ彼らの生活条件そのものと考えるべきであろう。

 仮に学区制の廃止が庶民階層の生徒の学校移動を促進すると想定しても、それは階層混合と教育格差の解消に貢献するとは言いがたい。というのも、この「恩恵」を利用してあえて学校選択を実践する生徒は、強い上昇志向とそれを支える優秀な学業成績の持ち主であり、彼らが良い学校を求めて地元の恵まれない学校を離れると、そこには恵まれないカテゴリーの生徒が取り残され、社会的隔離状況がいっそう深刻化するからだ。学区制の廃止は、学校移動の促進効果を想定した場合でも、ごく少数の「庶民階層のエリート」をすくい取ることに寄与するだけで、大多数の生徒にとって、階層的隔離も教育の不平等もかえって強化されると言わざるを得ないのである11)

 学区制の廃止は、庶民階層に関して予想される事態とは逆に、中・上層階層の学校選択行動を活性化すると考えられる。Oberti (2007), van Zanten (2009)や荒井(2010)で指摘されたとおり、公共部門を中心とする中間階層や上層階層の一部には、学区制を含む公教育への信頼が存続し、それが学校選択に対する倫理的制約を課していた。彼らにとって、子どもを学区の指定された学校に通わせるのは、とくに障害がない限り当然のことなのである。学区制の廃止は、こうした倫理的枠組みをはずし、彼らをより「自由」に学校選択行動に向かわせる。教育における競争意識が強化され、「消費者」の選択志向の高まりが学校間の差異化を促し、学校間格差を広げる。Broccolichi et van Zanten (1997)が指摘するとおり、こうした階層の親たちの場合、学校間の格差と競争的な差異化こそが学校選択を誘発し、動機づける。競争と差異化が彼らに「自由選択」を強いるのである。さらに、学区制という歯止めを失って強化された競争環境では、有利な条件の学校に多くの要求が集中するから、「選択」は「選抜」を伴うことになる。親たちの「自由」には実質がない。競争が選択を刺激する状況で、彼らは学校選択行動に向かわざるをえず、しかも自分から「選ぶ」よりもむしろ「選ばれる」ことになるからだ。学区制の廃止による競争環境の激化は、「選ばないという選択肢」もあった人々をも選ぶことに駆り立て、しかも実際には「選ぶのではなく選ばれる」という現実に直面させるのである12)

 学校選択の「自由化」は、結局はこうした中間階層を中心とする家庭に対して、親の不安が増大するほどには、学校の上方移動の可能性を広げてくれるわけではない。学区制廃止が誘発する彼らの選択行動は、自分たちに利益をもたらすというよりは、むしろ上層階層の功利主義的教育投資行動を社会的に正当化する、という効果を生む。Oberti (2007)van Zanten(2009)が示すように、この階層は、社会階層的(かつ人種的)等質性を居住地にも学校にも求め、他のどの階層にもまして「自己隔離」を実現している。対極にある「ゲットー化」した学校が、特定人種生徒の極端な集中をみせる(Felouzis et al. 2005)のと同様、学校における生徒の社会的・人種的隔離状況は、人種差別をはじめとする社会的分断要因の温床となる。社会的結束を維持するためにも、学校における階層・人種混合は不可欠であろう。そして、それを実現し維持するには、上層階層の功利主義的教育投資行動を抑制し、学校間の差異化競争を沈静化させる方策、すなわち過熱した「選択の自由」をむしろ規制する方策が必要となるだろう。

 こうした方向に向かっていくつかの方策が提案されている。コースや選択科目などの教育供給を学校レベルで平準化すること、学区の範囲や線引きを変更し、各家庭の教育供給へのアクセスを平等化すること、各学校に生徒の成績別あるいは社会階層別定員制quotaを設けること、そして学区制や定員制を私立学校にも適用することなどである13)。こうした提案は、どれも明確な政治的意思と広い国民的合意を必要とし、実施には多くの困難が予想されるが、学校における社会的隔離状況の解消に向けて一定の効果が期待できる。

 

4.結論

 我々は、上の各節における議論を通して、学区制の廃止が、学校における階層混合・教育の社会的格差の解消に貢献するか検討してきたが、結論として、この問いには否定的に答えざるをえない。その核心的な理由は、第1節で明らかにしたように、学区制廃止が社会的・教育的に最も恵まれない生徒たちの学校移動を上方にむけて引き起こすわけではないからである。私企業高級管理職などの上層階層のように功利主義的に学校選択をするためには、庶民階層には手のとどかない経済力と情報力が必要となる。さらに、この階層の積極的教育投資行動は、教育を社会・経済的成功の手段とみなす新自由主義的な教育・社会哲学によって支えられているが、こうした思想もすべての階層が共有するわけではなく、公共制度や各階層の市民の共存をより重視する人々も、多数、存在している。自由化が社会正義をもたらす、とする考えは、すべての人が同じ行動の要件を備え、かつ同じ情報にアクセスできることを前提にするが、学校教育に関してはこの前提は当てはまらない。すべての階層の家庭が、教育市場の中で自由な「消費者」として行動する条件を均等に備えているわけではないからである。

 その上、教育における社会的不平等には、階層混合だけでは解決できない側面がある。第3節でみたように、学校教育における家庭の役割が増大する中で、教育の社会的不平等は家庭の「教育力」とはっきりと相関するようになった。この教育力、すなわち子どもを学校教育にむけて準備する能力は、各家庭が所持する経済・文化資本に決定的に依存し、社会階層的な格差をはっきりと反映する。この教育力の格差は、たとえ学校における社会階層の混合が実現したとしても、直ちに埋まるわけではない。すなわち、学校における階層混合が教育の社会的不平等の解消に直結するわけではないのである。しかしながら、現状では、この重要な論点が、学区制や学校選択の研究・議論においてしばしば見過ごされている。教育格差の問題はしばしば学校における社会的隔離状況の問題に帰され、階層混合が実現すれば、教育格差も解消するかのような短絡的な議論が多くみられる。第2節でみたように、経済・文化資本の少ない庶民階層の家庭は、しばしば学校の教育的要求に十分にこたえられない。したがって、この階層の子どもたちに対する学校の教育実践のあり方を変えることが、学校における階層混合とは独立して、教育格差を埋めるためには不可欠である。教育プログラムや教員養成の再考も含めて、そのためにはどのような施策が必要となるか、慎重な検討を要する。前段で論じた社会的隔離状況の解消を目指す新たな規制のあり方とともに、さらに合理的で説得力のある方策の提案に向けて、今後の社会学的・教育学的研究の成果が待たれる。

 

1) フランスの中学校(collège)は前期中等教育の学校施設で、その入学は11才時点、在学期間は4年間である。進学年齢・在学年数の点で日本の中学校とは異なるが、本稿では表記の簡便さをとって「中学校」と表記する。フランス中等教育の学年呼称は日本とは異る。すなわち、中学校第一学年が「第6学年」となり、その後進級するごとに数値が減少し、高校進学直前の中学校4年目が「第3学年」となる。

2) 本稿で言及する社会階層は、「社会職業カテゴリー」の基づく分類で、François et Poupeau (2008)に従った。その詳細は、荒井(2010b)Web公開中―の注11および注2参照のこと。

3) 成績と特別許可の承認との関係は、不透明な部分が大きい。POPSCOL (2009)によれば、ある中学校の校長は、第6学年への入学に際して、特別許可願が校長の目に触れることはなく、したがって、生徒の小学校の成績が第6学年入学時の学校選択に影響することはない、と断言する。小学校から直接大学区へ書類が送られるから、校長は特別許可の承認・不承認の結果しか知らされないのである。これに対して、第5学年から第3学年にかけての中途の学区外学校への転校特別許可願は、転出側・転入側両方の校長の承認を必要とする。両者の意見が、「承認」または「不承認」で一致したときは、大学区は校長たちの裁定を尊重する。両者の意見が分かれたときは、大学区が判断を下す。このケースでは、校長たちが生徒の成績を考慮することもありうる。こうした中学校校長の言明にもかかわらず、親たちや、小学校の校長でさえ、第6学年入学時の特別許可に関しても、大学区が中学校の校長の意向を聞くと判断している。公式には決して言明されないが、その際、生徒の成績によって、特別許可の可否が左右される、と彼らは考えているのである。特別許可を手に入れるために、対象となる中学校の校長に直接交渉するというような事例が存在することを考えると、親たちのこの判断は決して根拠のないものとはいえないし、経験的事実の集積がこの判断を支えている可能性もある。その一方で、子どもの成績と特別許可承認との関係は、以下のようにより間接的なものである可能性も排除できない。すなわち、中産階層や、特に上層階層の親たちは、彼らの文化資本のおかげで、特別許可を得るために必要な議論を説得的に展開できる(Felouzis et al. 2005)。これは、「特別許可願」なるものに特定の書式等がなく、各人がそれぞれのやりかたで書く「お願いの手紙」であるという事実を考慮すると、きわめて重要である。一方、経済・文化資本に恵まれた上位階層出身の子どもは学校の成績がよいという「遺産相続」(Bourdieu et Passeron 1964)関係を考えると、特別許可を得るための要件として、親の文化資本の豊かさと子どもの成績の良さが、混同して判断されている可能性もある。

4) それでもこの小学校では、2009年度の51人の卒業生のうち16人(31%)が、学区外の中学校への入学を求めて特別許可願を出している。小学校校長の説得がなければこの数値は大幅に増加しただろう。

5) 庶民階層の私立の選択は、しばしば落第等の落ちこぼれ対策となっている。庶民階層の成績優秀者はかえって学区学校にとどまる傾向さえある(第3節参照)。公立校間でみられたのと同様に、私立校間でも、エリート校から「社会政策的」私立校に至る専門化と役割分担が進行し、生徒の社会階層に応じた序列が作られつつある。

6) 上層および中間階層の学校選択・教育投資行動に関する優れた研究であるvan Zanten(2001, 2009)Oberti(2007)もこの点では同様である。たとえば、Oberti (2007: 237)は、学校選択に対する庶民階層の姿勢を、きびしい経済・社会的状況の中で、学校に対して最小限しか期待せず、排除されないように「生き残り」をかけて行動する「引きこもり」戦略と表現している。

7) 一般に今の子どもたちが受けている教育は、教育方法・用語・教材などの点で、親の世代が受けた教育とは大きく異なっている。また、かつては中等教育で扱われた内容の下送りなどのために、学歴の低い親には小学校レベルでの学習補助も難しくなっている。荒井(2010)は、子どもの宿題をみた母親の経験として、文法などで用語が変化し、同じ内容でも自分が受けてきた初・中等教育とまったく異なった様式が採用されているため、大学教育を受けてきた者でも考え込まされた、という談話を採録している。彼女は、もし自分に高等教育の学歴がなかったら、小学校の練習問題の指示さえまったく理解できなかったろう、と証言している。教育方法論的洗練が難解さを生み出すという事実は、注9で指摘した教員の高学歴化とも関連するかもしれない。

8) Duru-Bella(2001)は、庶民階層の生徒や女子生徒が、自分から学歴価値の低い進路を選ぶ「自己排除選択」の傾向を取り上げ、それが彼らの学業成績にマイナスに働くことを指摘しているが、そのメカニズムを分析するよりも、むしろそれを「自然化」しているように思われる。

9) 荒井(2010)には、古いタイプの教員によるIUFM出身者の評価が採録されている。それによると、かつて教員には、階層上昇を補助しようという社会的・政治的なコミットメントがあったが、新しい世代の教員は、教育理論的な知識が豊富な反面、生徒に対するそうした姿勢を欠いているという。また、荒井(2010)には、1960年代に、労働者家庭の子どもが勉強を続けられるように、教員によって特別の配慮がなされたり、両親への説得が行われた例も採録されている。

10) 2007年の緩和措置後における特別許可の申請・承認数については荒井(2009b:52)および荒井(2010bWeb公開中―の21参照。この政策がもたらした学校現場の変化を調査した国民教育省監査官の報告は、« Carte scolaire: l'assouplissement renforce les ghettos»(LibérationWeb2008617)« Carte scolaire: mixité sociale dégradée»(Le FigaroWeb2008617)によって報道された。記事のタイトルが示すとおり、学校における社会的隔離状況が深刻化したという内容である。また、2009年にも会計検査院による同趣旨の報告書が出され、« Carte scolaire : la Cour des comptes pointe un risque de ghettoïsation» (Le MondeWeb2009115)« La nouvelle carte scolaire crée bien des ghettos» (LibérationWeb2009116)によって報道された。

11) 2007年から実施された学区制緩和措置で、学区外学校への入学特別許可の優先的承認基準が明示され、そこに経済的理由による奨学生または学業優秀者の奨学生を優先するという項目が入れられた。van Zanten et Obin (2008)は、特別許可承認の「社会的基準」として奨学生に優先権が与えられたことを高く評価する一方、奨学生優遇策が、生徒流出傾向がある学校から「できる子」を離れさせ、そういう学校の荒廃を進行させたという指摘もしている。ここで注意しなければならない点は、奨学生に与えられる優先権とは、入学特別許可願の数が、施設の受入能力を上回った場合の選考における優先権であり、奨学生が希望する中学校に移動することを必ずしも保障するわけではない点である。POPSCOL (2009)によれば、2009年度のパリ市では、特別許可を手にした奨学生は、特別許可願を提出した奨学生の47%に過ぎない。

12) 荒井(2010)には「選ばないという選択」をあえてした家庭のケースが採録されている。この家庭は、豊富な経済・文化資本を持ち、かつ周囲に多くの学校回避者をみながら、学区の学校に関する「悪い評判」をあえて相対化してとらえ、子どもをその学校に行かせた。共和国の公教育を支持するという「原則」のほかに、この家庭の場合は、問題行動を抱える青少年の施設(公共部門)で心理療法師として働く母親の職業経験が決定的な役割を果たしていると思われる(van Zanten 2009: 95参照)

13) こうした提案は、Felouzis et al. (2005), Oberti (2007), van Zanten (Le Monde, 2009116日付記事参照), Fack et Grenet (2006), Dubet et Duru-Bellat (2006)などでみられる。


 

参考文献

 

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